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図書新聞経済時評1998.1.

 

カルト的経済倫理の時代

――日本的経営システムの代替物か

 

橋本努

 

 企業が永続的に卓越しうる条件は企業理念のもつ「カルト性」にあるという。コリンズ/ポラス著『ビジョナリー・カンパニー』(日経BP出版センター、九五年)の主張である。カルトとは、体系的な礼拝儀式と熱狂者をもつ邪教的な集団現象をさす。世界中至る所にみられる現象だ。近年においてカルトが問題となったのは、六〇〜七〇年代アメリカのニューエイジ・ブーム、そしてそれを輸入したかたちでの八〇〜九〇年代日本の新宗教ブームである。ジム・ジョーンズひきいる人民寺院の信者九〇〇人の集団自殺が米国カルトの悲惨な末路だとすれば、オウム真理教はその日本的末路と言えるかもしれない。

 しかし別の見方もできる。カルト精神は日本社会のなかに着実に浸透しており、とくに企業の経営倫理として採用されつつある。カルト倫理は、もしかすると勤勉・努力・忠誠といった近代資本主義のエートスに取って代わるかもしれない。斉藤貴男著『カルト資本主義』(文藝春秋、九七年)は、そうした予兆現象をすぐれた取材力によって描き出している。斉藤によれば、現代の日本社会には次のような新しい価値体系が誕生しつつある。すなわち、西洋近代文明を否定してエコロジーを主張する。オカルト的な神秘主義を基本的価値観とする。個人よりも全体を優先する。無我の境地やポジティヴ・シンキングなどの倫理を提示する。企業経営者や官僚がその担い手である。――こういった特徴から「カルト資本主義」という病理的社会像が浮かび上がってくる。

 例えば、「第七サティアン」の異名をもつソニーの超能力研究所。終末思想と千年王国論を説く経営コンサルタント、船井幸雄。ヤマギシ会の特別講習研鑚会の手法に関心を示す企業経営者たち。古神道やニューエイジを取り入れた京セラ稲盛和夫の経営哲学、科学技術庁のオカルト研究等である。斉藤はこうしたカルト的風潮の全体が、知性よりも感性や直観を重視することで、集団的無意識を利用したナチズムの全体主義に近づくと警告する。

 反対に、カルト的な文化を評価する主張もある。かつて西洋文明を否定しつつ東洋思想を取り入れたアメリカのニューエイジ運動は、いまや日本に逆輸入された形で勢いを増している。しかし中村雅彦「『こころ』の探究こそ現代文明の混迷を打破する突破口である」(『日本の論点98』文藝春秋、九七年所収)の見るところ、だからといって〈精神世界=オカルト=危険思想〉と捉えるのは短絡的すぎる。高度に発達した資本主義社会では、合理性と効率性に「息苦しさ」を感じる人々が、心のつながりを求めて精神世界に関心をもつのは当然。人類社会の未来に対する不安や危機感に立ち向かうには、現実社会のリアリズムを見据えるよりも、まずは心の精神世界を築く必要がある。昨今の精神世界ブームは、失われた「こころ」の復権運動として評価できるという。

 なるほど正論ではある。しかし危惧すべきは、カルトがまさに企業の経営倫理として利用され、個人の独立自尊を奪うという点にある。自己を滅して献身を要求するカルト的経営倫理は、日本的経営倫理を機能的に代替する。つまりカルトは、これまでの日本的経営倫理に代わって、終身雇用や年功序列を保証せずに企業戦士のエートスを確保する労務管理技術たりうる。こうした技術に依拠して倫理経済の成長と発展を望むべきか、それとも市民的な独立自尊の個人主義を望むべきか。ここには大きなジレンマがある。

 斉藤氏のようにカルトとオカルトを同一視し、反科学を全般的に批判する啓蒙主義の視点は、しかし問題の枠組を単純化しすぎていよう。一六世紀に中世的価値の復興としてはじまるオカルト=隠秘は、カルト的ではない学問・教育・芸術の諸運動として評価すべき点を多くもつ。オカルトは、啓蒙の光が弱化してはじめてまともに対話できる領域である。ヒュームとともに啓蒙に対して批判の矢を向けるならば、カルトならぬオカルト的経営倫理を別の観点から再評価する余地もあるはずだ。

(経済思想)